2008-08-11
それは、音楽の語法がいつまでもバッハの延長にあって、その枠をどこか壊したいという欲求が強いからであり、現代文学は新しい何か(作品)の中に古典を越えていないことを感じ取ると、読む気が失くなって、それならいっそ古典を読んでいた方がきっと楽しいだろうと思っているから、なのだと思いました。
これらの間には確かに違いがあり、それにプラスして、音楽と文学の歴史や経緯の違い(についての私の認識)を絡めて考えると、必ずしも正反対とは言えなくなります。自分の中の矛盾かもしれないものが少し分かったような気がします。
余り自分の話ばかりでは申し訳ないです。これ以上書くと、自分が嫌になりそうです……。
話を戻しますと、その音楽と対比させて、現代短歌のセンスを重視するかのような姿勢が、実は、音楽でもセンスを重視する姿勢と重なっているところに奇妙な感覚を覚えました。
音楽が、例えば、コンピュータを中心とする機械の恩恵で、素人でも簡単に曲を作れるようになったことを、私は喜んでいます。
しかし、歌が現代国語の教育の恩恵で、簡単に作れるようになったことそのものは喜ばしいのですが、そのどちらもを、意味は違うけれども同じ「センス」という言葉で表すから、妙なことになるのだと思いました。
あくまで日本の場合ですが、音楽が、特に西洋化された音楽が特殊技能の持ち主から解放されたのは、かなり最近のここ何十年、いえ、寧ろここ十年ほどの話です。歌や詩、小説も、言葉を使うという意味では、それを使えない人が決して少なくなかった時代から、言葉を多くの人が使えるようになって、解放されたと言えますが、それも最近になってからだとは思います。しかし、音楽よりはずっと以前……と言ってもこれも数十年の差でしょうが……の話だと思います。
センスが最も大事というような段階は、詩や歌の場合、既に過ぎて次の段階にきていて、それに対して、音楽は今でも、もっともっとセンスを「信じて」それを「歌う」段階なのだと思います。ただ、音楽は、西洋化された音の場合、昔も今もお金がかかるのが残念なところですが……。
ですから、ある短歌からセンスが重要なのだ、という主張を読み取ってしまうような場合、多少なりともうんざりしてしまうのだと思います。語弊を恐れず言えば、実は「簡単な」アナリーゼは、ほぼ誰でもが(私のような者でさえ)行っていることであり、アナリーゼなしに芸術に向き合うことの方が、寧ろ難しいと考えています。
(ここは私の専攻科目を出してしまって恐縮なのですが、哲学の一つの仮説、かなり信頼性の高い理論からほぼ間違いなく言えることと思います。具体的には、理論負荷性の仮説とそれに類する理論です。もし関心をお持ちになられましたら、私の分かる範囲でお話したり、本や論文を紹介することも可能です。。。)
私は、音楽や詩に限らず芸術と呼ばれている活動の「殆ど」は、「引用」から成り立っていると思っています。(だからこそ、引用に問題なく還元され得るような何か「以外」がとても重要になってくると思えるのです。)例えば、寺山修司のような突出したセンスで歌が詠めるのなら、もうそれ以上何も言うことはありません。が、多くの場合、引用の枠を越えて詩や音を歌うことは、才能に加えて相当の努力が必要になるでしょう。しかし、音楽はまだまだ、センスをこそ、もっともっと出してほしい領域なのです。
現代短歌がセンスの主張であるような場合、広告のキャッチコピーとそんなに変わりはないように感じてしまいます。それで問題があるかと言えばないのかもしれませんが、それでは、短歌もコピーも寂しすぎると思うところに、私の現代短歌への疑問が浮上してしまうのだと思います。ラップ音楽と短歌の関係も同様です。
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