2008-08-11
以下、ミクシ内である経緯があって書いた文章です。
そのため、流れが多少不自然ですが、せっかくですので、ここに転載して残しておこうと思います。
* * *
旧仮名遣いは、現代語の国語辞典でも併記されている場合が多いですので、何とかなることはなりますが、その表記が何に準じているのか、時々分からないことがありますね。(ーー;)
藤原定家が(ていかだけに)一度、定式化しましたけど、では、それまでの仮名遣いがおかしいのかというと、そういう訳でもありませんし、特に私は『万葉集』が好みですので、そうなると、読み方さえ幾つかの解釈が生じるという、ややこしさで……。たぶん、一番表現に相応しい仮名遣いをすればいいのでしょうが。。。
私は「万葉」に憧れを感じるのですが、確か「アララギ派」は万葉に拘りすぎたために行き詰まったというのですから、万葉回帰であればよい訳ではないことも、その意味でですが、証明されたようなものですね。。。
古文体が三十一字に合うというのは実感できるのですが、それが故に、現語体の「短歌」が、私にとっては非常に分かりづらいものになっているようです。
例えば、三十一を「みそひと」と読んで、歌に詠み込むことがありますね。「みそひと」と読み得ること自体が、歌の強みや良さ、そこから来る美しさであると感じると共に、現代語と古語とが、そんなに連続しているのだろうかと疑問にも思うのです。
そこまで考えを及ばせて作られた歌は、古語が生きているような気もするのですが、今では大抵、現代日本語を使えない人がいないので、現代口語体の短歌が沢山出てきて、それはまるで「センスで勝負」みたいな印象を受けてしまうのも、私にとっては事実なのです。
そうすると、口語散文詩の方がよほど表現手段としては適していると思うのですが、それでも「歌」でなければならない人もいるのでしょう、ホントに沢山の歌集が世に出ています。
外国の詩でも、例えばソネットや韻律のように、形があってこそ成り立ち得ると言うことができ、それと同じように、現代語調でも形があって成り立ち得る何か、があるのかもしれません。
近代短歌が「長歌」から全く独立して成立した頃、それでも長歌は完全に無視し捨てられた訳ではなかったように思います。(それは俳諧の成立の時にも同じことが言えると思います。)
また、古典文学では、散文の中に巧みに歌を入れることで、歌も生きるし散文の部分も生きてくるように思えました。
現代短歌になると、ここが私にとっての一番の疑問だと先日気付いた訳ですが、そうした「歌」の周りを巡ってくれる何かはなくてよいのだ、という印象の歌が増え続けてきているように思えて、それなら三十一の形式は何の意味を持って、ここに存在しているのだろうと、ふと考えざるを得なくなったようです。
ところで、私はよく、歌や詩に限らず絵や映画等も、音楽と対照させて考える癖があるようです。そこで、非常に面白い(実は、ちょっとぎくっとした(^^;)指摘をいただいたことがあります。
「君(ピロー=中島)は、音楽に関しては伝統より新しさを求めて、文学に関しては古典や伝統を重んじていることになる。反対のことをそれぞれに要求している」と言われました。
確かに私は、新たに音楽を聴くとき既に聴いたことがあるような曲に対しては、新しさがなくて全く詰まらない、と言ってしまうのです。しかし、文学に関しては新しいものを読んでも仕方がないと言って、積極的に読もうとはしません。古典文学の中に惹かれるものを感じ、現代音楽(まさに現代のことで、例えば「フォークトロニカ」と呼ばれるような最新のカテゴリーに入れられる「音」等)の中に惹かれるものを感じている、という訳です。
一見、正反対のこの自分の態度が私を戸惑わせたのですが、よく考えてみると、全く正反対とは言えないことにも気付きました。
セ記事を書く
セコメントをする